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無人兵器操縦者と精神疾患

無人兵器、操縦者、精神疾患

無人兵器と言うものがあるそうだ。
一見、普通の戦闘機や戦闘ヘリコプターの形をしていて、武器も搭載している。大きな違いは、操縦者がそれに乗っていないことにある。操縦者は、遠隔地にいて無線などを使って、偵察や攻撃を行う。
それらの無人兵器は米軍が活用を始めており、アフガニスタン紛争やイラク戦争でも実際に実践投入され始めている。
wikideiaでこの項を参照

米軍が無人兵器の活用に熱心なのは、米軍兵の損失を避けたいからだ。戦死者を出すのは教育コストの面からも、アメリカの世論の面からも避けなければならない。そのため、実際に戦場に行かずに遠隔操作できる無人兵器は、米軍にとって大変重要なのだ。

しかし、上のwikipediaの項でも触れられているが、無人兵器の操縦者のPTSDが多いそうだ。無人兵器を操り人を殺すことは思った以上に精神的なストレスを引き起こすらしい。 政治学者P.W.SingerのTEDでのこの講演では、精神疾患を多い理由を以下のように述べている。

(遠く離れた戦場ではなく)ネバダ州での12時間の遠隔攻撃の勤務の後、その20分後には夕食の席にいて、子供たちと宿題の話をする。

つまり、戦場と言う非日常と日常があまりに近すぎるので、精神のバランスを崩すのだと。また先のwikipediaでは、敵を殺傷する瞬間をカラーTVカメラや赤外線カメラで鮮明に見ることが、大きなストレスにつながると言う説を紹介している。

ためらいの倫理学に見る卑怯の概念

しかし、別の可能性もあるのではないだろうか?それは、卑怯と言う感覚である。哲学者の内田樹は、ためらいの倫理学の中で、カミュの著作を参照しながら、暴力と公正や卑怯の概念を検討している。

カミュの異邦人で、この物語の舞台、アルジュの労働者街ベルクールのモラルの説明をしている。 いわくその町でのモラルは、

「一人の人間に二人でかかっていってはならない」

というものだ。内田曰くこれは暴力における平等性をあらわしている。つまり、一対一でのサシの勝負なら良いが、一人の人間に対して、二人でかかって行くのは卑怯で男がすたるのだ。
決闘は容認されるが、リンチは容認されない。それは端的に卑怯だからだ。

この考え方は素朴だが、意外と真理をついている。普通の戦争の場合、自分も敵兵も同じ戦場におり、自分は敵兵を殺すが自分がミスすれば敵兵に殺される。当然、武器の性能差や兵力の違いはあるものの、命のやり取りが発生するという点で、まだ平等性が保たれている。
しかし、無人兵器の操縦者にはその種の平等性はない。自分は戦場から遠くにおり、自分がミスしても自分は死なない。攻撃され破壊されるのは、あくまで操作している兵器だけだ。
これは、異邦人の舞台ベルクールでは、「卑怯」な振る舞いだ。相手は死ぬ危険があるが、自分は死ぬ危険はない。遠方から一方的に相手をたこ殴りにできる。これはサシ(一対一の決闘)では無く、単なる虐殺ではないか?そう無人兵器の操縦者が感じても仕方が無いことだ。

もしかしたら人が戦場にいて正気を保っていられるのは、相手の命も奪うが、自分の命もまたうばられる危険があると言う公平の感覚なのかも知れない。それが無くなってしまうと、思いのほか強いストレスにさらされるのかも知れない。

米軍が兵士の人的な損失を防ごうと無人兵器の導入を進めた。確かに肉体的な損失は減ったが、皮肉なことに精神的な損失は増えてしまった。

Category: [] - 17:42:02

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Last-modified: 2015-02-01 (日) 14:38:24 (3366d)