この文は、眠れないので、私のメディアアート理解を文章化してみようと思い、日ごろ思っている事を書いたものです。私がメディアアートだと感じるものは、「動作原理を理解した上で、あえて違う世界に飛んでみる行為」なのではないかと考えています。

原理の理解と間違った応用

ある音楽家の話

私がメディアアートだと密かに思っているものは、キットラーが紹介していたある音楽家の話です。彼は、レコードが一般に広まりだした当時、人の頭蓋骨のひび割れに、レコード針をこすり付けて音を出し、これが音楽であると言いました(うろ覚えなので細かいところは違うかも)。
殺された人の頭蓋骨の溝をレコード針でなぞったら、「犯人はあいつ〜♪」とか、音楽がながれたら結構いやだなって思うけど。

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グラモフォン・フィルム・タイプライター

レコードが可能にしたもの

レコードが出来るまで、私たちは、音楽を保存することが出来ませんでした。ある人の音楽を聞くためには、わざわざコンサートホールに足を運び、音楽家が演奏するその瞬間に立ち会わなければならなかったのです。
その当時、音楽とは、楽器が奏でる音と同じであり、言うなれば「音楽=楽器」でした。
けれども、レコード(グラムフォン)の発明により、音楽は、コンサートホールで生の演奏を聞くか、もしくは、レコードから再生される音を聞くかという二つの聞き方が出来るようになりました。つまり、それまで、音楽と楽器がイコールだったものが、「音楽=楽器」「音楽=レコード」という二つの方法で体験することが可能になりました。
上記の作曲家は、その体験を一歩進めて、「レコードや頭蓋骨の溝=音楽」だと考えました。だから、なんであれ溝があれば、それをレコード針でこすってみれば音が鳴るのではないかと考えたわけです。
多分、彼は録音の際、集音機が集めた音によって、記録用の針を振動し、レコードの原盤に溝が彫られていくことを知っていたと思います。音楽が溝に変換され、溝が再び音楽へと変換さる。それ故に、頭蓋骨の溝に対して、神様か何かが、音楽を記録するために溝を彫ったと考えたのかも知れません。

原理の理解と間違った応用

先ほど例にあげた作曲家は、多分レコードがどのように録音されどのように再生されるか理解していました。そのため、頭蓋骨の溝を、音楽が記録されたメディアだとみなすことが出来たのかも知れません。
動作原理を理解した上で、あえて違う風に飛躍して考える」ということが、メディアアートでは必要なのではないかと考えています(多分、普通のメディア教育にとっても大事なことだと思う)。
動作原理を理解できないと、飛躍できないし(闇雲に飛んでしまうという手はありますが)、動作原理を理解するだけでは、逆にそれにとらわれすぎて、飛躍出来なくなってしまいます。そういう危ういバランスの上に成り立っている世界なのかも知れません。



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Last-modified: 2015-02-01 (日) 14:38:24 (1021d)