2chより それから、ずいぶんと時間が経って、大阪の池田小学校の児童殺傷事 件が起こった。そして宅間容疑者が逮捕された。新聞やテレビ報道を通 して宅間容疑者のプロフィールを知ったとき、私はなぜか即、映画「ア メリカン・サイコ」を思い出していた。 似ているのだ。もちろん宅間容疑者は「アメリカン・サイコ」の主人 公のようにヤッピーなわけではない。お金を持っていたわけでもない。 だけど、似ているのだ。その虚無の有り様がとても似ているのだ。 現在、宅間容疑者は「死刑にしてほしい」ということを述べているら しい。 「アメリカン・サイコ」の主人公は、自分の弁護士に「俺は人を殺し た、何人も殺したんだ。俺は人殺しなんだ」と自供する。でも、弁護士 は全く聞く耳を持たない。「何をバカなことを言ってるのだ」と取り合っ てもらえない。そして、殺人現場のマンションからはいつのまにか死体 が消され、血まみれの壁は何者かによって改装されている。世界は彼を 罰しない。 162 名前:名無しさん@4周年 投稿日:03/09/24 08:36 ID:o7sb30Nf
163 名前:名無しさん@4周年 投稿日:03/09/24 08:37 ID:Fnfw8yKm どのような権力からも罰せられることはない主人公は、自分が生きて いると感じることができない。深い絶望。彼は生きたまま死んでいる。 誰によっても裁かれることのない自分。何をしてもヤリ放題の自分。 そうなったとき、人は何を思うのだろうか。 宅間容疑者も、過去に彼の罪は「精神病」であることを理由に許され たかに見える。実際は、許されたわけではない。ただ「裁き」からはず されたのだ。 宅間容疑者は「精神病であれば何をやっても罪にはならない」と、知 人に語っていたそうだ。 本当に宅間容疑者は「精神病のように振る舞おうとした」のだろうか。 でも、そもそも彼を「精神病」としたのは彼自身ではない。病院という 権力だ。 本当は自分より強い何者かから、人間として罰せられたかったのじゃ ないか。裁きからすらはずされたことで、より強烈な空虚を感じていた のじゃないか。自分が正気なのに罰せられないとするなら、それは自分 の存在が認められていないからだ。見えているのに透明人間のように扱 われていると、心は自分からますます乖離していく。 心が肉体や存在から乖離してしまうと、心は生きる力を失い、妄想と いう自己発電装置が作動する。でも妄想によって供給されるエネルギー は、なぜか死へと向かうのだ。 もし自分以外の誰かが「お前は精神の病気だから、お前にはお前の人 生における責任能力がない」と言ったら、私は「冗談じゃない」と思う だろう。もしかしたら宅間容疑者もそう言いたかったのではないか。 「俺は正気で人を殺すことができるのだ」と。それが俺だ。だから死刑 にしろ、と。 |