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今日たまたま山形浩生「新教養主義宣言」(昌文社)を読んでいて面白い記述を見つけた。

それは「インターネットと怪談」について書かれたものだ。

かいつまんで説明すると、

あるパソコン通信のシスオペが、自分の会議室が閉鎖されたことをはかなんで自殺した。閉鎖された会議室はしばらく読みとり専用でそのまま公開され続けたけど数ヶ月で完全に消された。アクセスしようとしても会議室が消えているのでエラーメッセージが帰ってくるだけだった。
ところがある日、オートパイロットでアクセスしていたその会議室の旧メンバーがアクセスのログを見ていると無くなったはずのその会議室に入れてしまっていることに気がついた。そこには新規のメッセージが一つだけアップされていた。が、不思議なことにダウンロードされたメッセージを見てみると、アップした人間のハンドルもIDも書かれていない。メッセージの中身も空白だった。
フォーラムが復活したのかと思ったその人は、すぐに手動でネットに繋ぎ、アクセスを試みたが、いつもと同じエラーメッセージにか返ってこない。
会議室の復活の有無を旧メンバーや運営事務局に訪ねてもその事実はないという。
不思議に思って再度そのメッセージを見ているうちに、そのメッセージのアップロードの日付が目に入った。調べてみると、それはあのシスオペの命日だったという、

と言う内容だった。ほとんど全文を引用してしまったけれど久しぶりに怖い思いをした。鳥肌が立ったのも久しぶりだ。

山形は、サイバースペースが、異世界に繋がっているような感覚をもたらすとまとめたが、その得体の知れない感覚ってのはあながち否定できない。
多くの人が友達の電子メールとか<FROM>で受信時に振り分けて友達毎のフォルダーを作っていると思うけど、ある日突然、死んだ友達のフォルダーに新着メッセージが届いていたらそのメールを読むべきかどうか真剣に悩むと思う。
人は新しいテクノロジーが生まれたときになんだか底知れぬ不気味さを感じてしまうけどインターネットという結構無味乾燥に思われがちな場所でも、同じ様な底知れぬ湿り気や暗闇を感じてしまうのだと思う。

今はまだ友達の訃報とか電子メールで受け取る経験は少ないけど、後十年もして、みんなそれなりに経験していくと、インターネットが持つ何となく気持ち悪い感じとかを共有して行くんじゃないかと思う。
10年位したらインターネットを舞台にした怪談とか出来ちゃいそうな気がする。
と言う話をアニュアル部屋でした。

自分が死んだ後一定期間すぎたら、、親しい友人とかに世話になったみたいな電子メールを、自動的に送るような仕掛けを作ると受けるかも知れない。
私はそういうの貰えるとなんか嬉しい気がする。それはなんかどこかで遠くだけど繋がった場所で見守っていて貰える感覚になるからだろう。
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2000年くらいにこの文を書いた。人の訃報をMLやネットの掲示板で知るようになるにつれて、ネットの気味悪さは、ふくらんでいく。

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